2004年1月:改めてまちづくりとは?


 高度経済成長期は、人々が共有できるような「望ましい都市像」を描きやすく、私たちはそれなりに、望ましい街づくりに向けて動いているという実感を持って活動ができました。ですから、どんなに難しくても、忙しくても、望ましい将来に向けて働いているという意識の中で、仕事にも十分な充実感を感じることができました。しかし、現在はどうでしょう。皆さんはどう感じておられるでしょうか?

 望ましい将来像とはそれが空間的なものであれは、より専門的な能力が要求されるわけですが、時代の進展とともに、将来像は徐々に空間的なものから人々が共有できる「イメージ」になってきたように思います。そうした中で、都市計画のプロとしての仕事より合意形成の仕事が重要になってきたようです。それは市民社会の進展の必然的な方向でもあり、厳しさを増してきた財政事情とも合致する方向だったわけで、ワークショップやら、委員会やら、さらには各種シンポジウム・研究会等が必要とされるようになってきたというわけです。

 そうした中で、まちづくりは、従来の「空間的な計画」から、人々の合意形成をマネジメントする、すなわち「時間を計画する」ものに変化してきた、と理解しているわけです。

 

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 それは、本来は適切なプログラム計画があってしかるべきなのですが、そのための専門家がいるとは一般に理解されていませんし仕事の成果も明確ではないこともあって、むしろ試行錯誤しながら進められるべきものであると考えられているようです。

 また、一方では、まちづくりとは幅広い概念ですから、あらゆる方面にまちづくりをやっている、あるいはそれができると思っている人々が増えてきたわけで、明確な目標に向けたプログラムとしての合意形成、というより、あいまいなまちづくりのための合意形成イベントが活発になっているように思います。

 そういう場面では、(事業収支・プログラム・主体が明確な)計画づくりの仕事」というより、「合意形成のための意見調整の仕事」が主体になっている、と理解しているわけです。

 

 皮肉なことに、現在の経済環境は、急いで事業を進めることよりゆっくり費用をかけずに進めることを求めており、「効率」より、時間をかけた「手続き」を要求しているように思われます。かって、私たちが必死に知恵と時間を注いできた専門的な領域の仕事ではなく、議論のための資料のまとめや、会議の運営、議論の経過や結果の整理等、むしろ誰でもその気になれば出来るような仕事へと変わってきたと言えましょう。まちづくり計画も能力を使うものから、時間を使うものに変わってきたわけです。

 

 私が考えるまちづくりは、ただおもしろい施設をデザインし、多くの人々を集めればそれで良しとするものでもなく、極端な話しをお許しいただけば、六本木ヒルズのように、周辺地域と無関係に事業を実現すれば良しとするでもなく、既存マンションや郊外部の住宅地を食いつぶすようなや超高層マンションをつくって、入居者があればそれで良しとするものでもなく、ひいては地方を疲弊させて東京が活性化すれば良しとするものでもありません。

 かっては「まちづくり」に夢を持って活動してきた人たちの多くが、経済優先のそうした事業に関わるか、単に「まちづくり関連業務」として業務をこなしているだけのように見えるのは、何故でしょうか?

 

 それは、私だけの思いかもしれませんが、まちづくりに関わる多くの人々が、目指すべき目標像を描くことをやめているからのように思われるのです。

 

 まちづくりとは、多くの人々がその将来像を共有できることは前提ですが、それが確実に望ましい将来につながったものとなるよう、様々な専門的な知恵も集積した将来像を明確にし、それに向けて着実な歩みを示すものである必要があると、(今では古典的な考えでしょうが)私は考えたいのです。

 

 皆さんはどのよう考えますでしょうか?

 

   平成16年1月 

 

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