1996年12月号:地球と文明


 今回は、タイトルほど大げさな話ではないんです。時間がなくて.........。


 大相撲九州場所は、何と5人による優勝決定戦が行われました。結果は、武蔵丸が優勝です。しかし、いつも思うのですが、優勝決定戦では連勝するまではいつまでも繰り返して戦うことになるといいながら、いつもあっけなく決着がついてしまいますね。(^^;)

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 遅ればせながら、「神々の指紋」という本を読んでみました。久しぶりに興奮しながら読んだ本でした。もし、まだの方がいらっしゃるようでしたら、是非一読されることをお薦めします。訳者もあとがきで書いているように、これは「読まなければならない本」類の本だと思います。

 私は、都市計画を本業としてやるようになる以前に、環境に配慮した土地利用計画はいかにあるべきかを研究対象としていた時期がありました。そうした時期に考えていたことは(詳しい説明は省略しますが)

 すなわち、人類の、ますます環境消費型の発展の仕方をみていると、どのように環境にやさしいという生き方としようとエネルギーの消費は避けることができず、最終的な汚染としての熱汚染からは逃れられないということです(全てのエネルギーを太陽エネルギーに切り替えられるというのであれば別ですが)。
 このような点に関して、私は、経済優先の現在の世の中を知れば知るほど、人間というものの浅ましさを感じてしまいます。また、愚かな戦争を続ける世界を見ていると、本当に人間というものがどうしようもない存在に思えて、とても地球環境を考慮した生き方を人類が選択できるような気がしないのです。

 地球が46億年前に生まれてから現在に至るまでの歴史を1年間に例えるとすれば、400万年前に生まれたとされる人類の歴史は最後の数秒にすぎないということになっています。こんな地球の歴史ですから、地球がちょっと異常な状態になれば、人類などどこかに消えてなくなってしまうという風に考える方が自然ではないでしょうか。そう考えれば考える程「偶然存在しているに過ぎない人類なのに、どうしてこれほど尊大な生物になってしまっているのだろうか?」というようなことを考えてしまうのです。

 かといって、建築から都市計画に進んだ自分としては、環境問題を本業としてずっと取り組んでいく気分にもなれず、「環境のことを意識するのは大変重要であるが、基本的には、好きなことをして生きていくべきである」と考えることで自分を納得させてきたわけです(田舎生まれの私としては、高度経済成長時代において周辺がどんどん変化していく時代を、歓迎する気持ち育ってきており、やはり新しいものを創っていくことが好きなのです)。でも、環境に関してはどこかに引っかかるものがあり、車を持たず(わが家にはモーターで動く移動装置は一つも無いのです(^^;)、クーラーもつい最近まで我慢して、というような生活をしてきたわけですが.....。
 そういうわけで、車を乗り回しつつ環境問題を論じているような方々がいらっしゃいますが、私は、そういう方々は「<環境>を食い扶持にしている方々であって、環境を本気で考えている人ではない」とどうも心の底では考えているようなのです(コワーイかな?)。

 この本の内容は私には衝撃的でした。「有史以前と考えられていた時代に現在と同程度の文明があったのではないか!」とする著者の説は、そういうわけで、私には「そういうことも十分あるな。そういうことだったのか?」と思わせるに十分の説得力がありました。学者達からは、「根拠が乏しい」とする反論も多くあるようですが、これほど明快に過去の文明の遺産の謎を説明してくれたものは今まであったでしょうか?
 長い長い地球の歴史の中で、文明が少なくとも一度は壊滅的な状態に陥ったことがあるという事実(そう信じますが)を、このように突きつけられると、(人によってはいろいろな感想を持つのでしょうが)私は、「人類はもっと謙虚に生きたいものだ」ということを、さらに強く感じるようになりました。 


 現在、「ユネスコ世界遺産」講談社、「世界大地図舘」小学館、という本が出ています。これは、地球というものを、人類というものを改めて考えさせてくれる大変優れた本であると思います。併せて、これらの本も是非ご覧下さい。
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