■イタリア旅行 イタリア縦断とシチリア島の旅13日間(2007年5月16日〜5月28日)

0)はじめに  1)成田〜ミラノ  2)ミラノ  3)ベネツィア・ラヴェンナ  4)ピサ・フィレンツェ  5)サンジミニャーノ・シエナ  6)マテーラ(・アルベロベッロ)  7)アルベロベッロ  8)タオルミーナ  9)アグリジェント・モンレアーレ・パレルモ  10)カプリ島・(ナポリ・)ポンペイ  11)ヴァチカン・ローマ  12)帰国  13)あとがき 

「風景画の部屋」へ

■11日目:2007年5月26日(土) 晴のち曇り(ちょっとだけ小雨)のち晴

・05:50 起床。

 本日も快晴。窓から外を見ると丁度太陽が顔を出すところ。
 もちろん写真を撮った。

 

・06:50 朝食。

 いつものアメリカンの朝食であるが、今日は少しお腹が重たい気がしたので多少シンプルにした。

・07:30 出発。

 

【バチカン(*1)観光】

  

・08:10 (バチカン市国に入るために)まず、バチカン博物館入口のところで開門を待つことになる。予約が取れないために早めに出たが、土曜日なので予定外に早く着いたらしく、列の先頭から50mほどの位置だろうか。これならオープンしさえすれば早めに入れるとのこと。 ☆089

 それでも2時間ほど待つことになる。ここでスケッチ2枚。
 この道の突き当たりあたりが門の位置になる。

  

 私がカメラを首に下げているのに絵を描いているのが不思議だったらしい。フェラーラから来たというグループが私たちのグループの一人に話しかけたらしい彼は外国人との会話が得意なので何かを話していた。絵を描き終わってから、私もその話しに参加。
 特に、あちらのグループの一人、活発な女性(エリザベート)と話しが弾んだ。「もしかしたら、私は、この秋またイタリアに来るかも。」と言うと、「歓迎する。フェラーラを案内しよう。」とのこと。
 写真を撮り、メールアドレスを貰って別れた。
#実は、現在、テニス仲間でつくる「イ・ビリキーニ(いたずら小僧)」というグループがあって、そのイタリア行きの企画があるのだ(イタリア在住歴10年の方が中心)。本当に実現したら楽しいことになりそうな予感が…(^_^.)。
#しかし帰国したとたんに、無期延期になったとの連絡が…。ガッカリ(^^ゞ。

  中央がエリザベート

・09:45 開門。

 迷子になったらシスティーナ礼拝堂の入口で11:10頃待つことを確認して中に入る。それほど混雑しているのだ。混雑でガイドの話も通らないために、ここではマイクとイヤフォンで話しを聞くことになっている。
#それにしても性能の悪い機械だった。

 ここも荷物チェックが厳しい。ペットボトルも禁止である。

 

◆10:16 松ポックリの中庭(*2)で写真など。

  

  これが松ポックリ?

◆システィーナ礼拝堂(*3)

 全く知らないまま訪れたのだが、この中が全て絵画で埋め尽くされている建物だった。ボッティチェリの最後の審判、ミケランジェロの天井画(天地創造等)などが有名。

#但し、ここの修復事業に日本TVがかなりの貢献をしたらしく、展示物の権利全てを日本TVが持っているとのことで内部は撮影禁止。また、オシャベリも規制されている。したがって、内部の展示物の説明は事前に礼拝堂の外で行なわれる。

  

 宮殿(だと思うけど…)内部の天井は、いずれも見事。

◆11:40〜12:10 サンピエトロ寺院(*4)

 内部の豪華さはやはり世界最大規模かつ最高の芸術性の高いものということが十分納得できるものであった。

 最も印象に残った彫刻はミケランジェロのピエタ。今はガラスの壁に守られて展示されている。

  

  

 外に出た時、曇り空になっていた。

 楕円の広場には、半円の中心マークが2つ、広場の舗装に印されている。ここに立ってみると確かに外周の4列の柱が完全に重なって見える。まあ、そう造っているんだからあたりまえか(^^ゞ。 

 

【ローマに入国】

  

 と言っても、境界線をまたぐだけだけど…(^^ゞ。

 皆、ショップに入って時間を過ごす。私は、絵にするほどのものが感じられず、外でブラブラ。

 

・12:30 バスで、周囲を一回りしてレストランに向かう。

 

◆13:41 昼食(MEI-MAO):中華。 ☆090

 中華はもちろん久しぶり。酢豚などいつものものとはかなり味が異なるものもあったが、全体的には口に合うのだろう。まあうまかった。特にチャーハンが旨く、他の人があまり食べないもんだからついつい食べ過ぎてしまった。

 このあたりはバルトリーナ?という高級住宅地区だということである。

 

◆14:33 真実の口。 ☆091

 ローマの休日の場面を思い出す人が沢山いるらしく、写真を撮るだけのためにツアーに組み込まれている。30分以上もここで待つ。
 私は全然関心がないけど、ツアーだからこう言うところを回らないと文句を言う人もいるだろうし…(^^ゞ。

・その後、バスで、カンピドリオの丘、ベネツィア広場等を回る。

  真実の口(コスメディン教会)の前の風景

◆14:41〜15:10 コロッセオ、フォロロマーノ。 ☆092

  コンスタンディヌスの凱旋門

  

  フォロロマーノ

 これらは歩いて10分もかからない距離。急いで回った。

  

・またバスでサンタ・マリマ・マッジョーレ教会、「クジラの口」と称される特異な形態のエントランスを持つテルミナ(終着駅)、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会などを見て

◆15:40〜16:20 三越でショッピング。 ☆093

 次いで、わずかの距離だがバスで

◆16:36〜17:00 トレビの泉。 ☆094

 もちろん映画では見覚えがあるが、とにかくすごい人の数。ここで時間をもらっても写真を撮れば他に見るものもない。

 ここからはしばし歩き。

  

◆17:21〜16:15 スペイン広及びその周辺。 ☆095

 ここも本当にすごい人。しかし、これが日常的な状況らしい。
 手許の資料に依れば、イタリアは34の世界遺産を有している。それが今、これだけの観光客で混雑しているということを考えると、観光客に対するイタリアの強気姿勢もまんざらわからないでもないと思ってしまう。
 それに今後、中国やインドの人々まで世界観光に進出してきたら、どうなっていくんだろうか?

 ここで50分以上の自由時間(バチカンで予定以上の時間がかかったため短くなってしまったということだが)と説明されると、皆から「え〜?」という声。もうかなりヘトヘトだったのだ。

 疲れてはいたが、次にはここへ来る機会がないかもしれないと思えば頑張るしかない。階段を上って、さらに次のところへも…。

 

◆トリニタ・デイ・モンティ教会(スペイン広場の上の教会)。 ☆096 ?

  

◆(さらにローマ市街が一望出来るという)ピンチョの丘。 ☆097

・17:15 (引き返してトリニタ・デイ・モンティ教会の前のオベリスクで集合。

 絵の販売、似顔絵作家等が青空ショップが立ち並んでいたので、面白く眺めてきた。

  

  

 

・ここから少し歩いてバスに乗り ☆098 

◆18:45〜20:00 夕食(GIULIO CESARE:カンツォーネ・ディナー・ショー):ペンネアラビアータ。 ☆098

 ここにも早めに着いてしまい、店のオープンを早めてもらって夕食開始。

 ディナーショーということだ。女性はまあ綺麗で声も良かったが、男性が貧相で声も悪い。他の方達もちょっとガッカリした様子。

#私はまあこんなもの…と思っている。ツアーの安い料金を考えれば贅沢は言えないと思うのだが…。

 食事は、パスタと牛肉料理。肉はパサパサの感じで、旨くない。この旅行中初めて残した。デザートのチョコレート・ケーキは相変わらず甘すぎるし私の好みではない。

 

・20:30 (夕食後30分ほどで)ホテル着。

・23:00 就寝。

 今日は本当に疲れた。

 

◆ホテル

 プライム・ローマ・カッシア(旧:ドミナイン・ローマ・カッシア)

 TEL 06-3035931 FAX 06-30207111

続き

 


*1:バチカン Vatican

◎正式名称―バチカン市国Stato della Citt? del Vaticano/Vatican City State。

◎面積―0.44km2。

◎人口―1000人(1995)。

◎住民―市国民は直接・間接に教皇庁に仕える者で,ほとんどがイタリア人。

◎宗教―カトリック(国教)。

◎言語―イタリア語,ラテン語(以上公用語)。

◎通貨―リラLira(イタリアと共通)。

◎元首―教皇,ヨハネス・パウルス2世Johannes Paulus ?(1920年生れ,1978年10月即位

)。

◎国務長官―ソダノAngelo Sodano(1927年生れ,1990年12月就任)。

* *

イタリア南部,ローマの西部にある世界最小の国。全世界のカトリック教会の中心であ

る⇒教皇庁の所在地。教皇が元首で,市国民はすべて教皇庁に仕える。世界各国と大公

使を交換している。⇒バチカン宮殿,⇒サン・ピエトロ大聖堂など著名な建築物が多く

,⇒システィナ礼拝堂,⇒バチカン美術館,1200余の古写本をはじめ蔵書数90万に及ぶ図

書館などがある。

4世紀,⇒コンスタンティヌス1世によりペテロの墓上に聖堂が建設された(サン・ピエ

トロ大聖堂の前身)。9世紀半ばイスラム教徒に攻略されたが,その後周囲に城壁が建設

され,1377年教皇グレゴリウス11世が⇒アビニョン捕囚からローマに帰還して以後,教

皇常住の地となった。15世紀以後カトリック教会の中心。1870年イタリア王国領とな

ったが,1929年⇒ラテラノ協定によりバチカン市国が誕生した。1984年イタリアとの間

で新たな政教協約を結んだ。これによりカトリックはイタリアの国教でなくなるなど

,新協約はイタリア社会における教会の地位の低下を示した。1978年即位したポーラン

ド出身の⇒ヨハネス・パウルス2世は,1995年末までに約70回の外国訪問を行い,活発な

外交を進めている。

*2:バチカン宮殿

⇒バチカンにあるローマ⇒教皇庁の中心建築。ローマ・カトリック教会の総本山⇒サン

・ピエトロ大聖堂に隣接する。5世紀末,教皇シンマクスが居館を設けたのに始まる。1

377年グレゴリウス11世がここに教皇庁を移し,宮殿を整備。さらに⇒ブラマンテ,⇒ミ

ケランジェロなどの増改築によって威容を整えた。宮殿は,⇒ボルジア家の間,ベルベ

デーレ庭園,⇒システィナ礼拝堂などからなり,部屋数は1000余,中庭20で,構成は複雑

。教皇の居所はごく一部で,大部分は美術館,図書館として公開。

*3:システィナ礼拝堂

システィナれいはいどう

⇒バチカン宮殿にある教皇の礼拝堂。Cappella Sistina。教皇シクストゥス4世が147

3年―1481年ジョバナニ・デ・ドルチに建てさせた,長方形プランの簡素な?瓦建築で,ル

ネサンスから⇒マニエリスム期の多数の壁画,天井画によって名高い。〈システィナ〉

とは〈シクストゥスの〉の意。《天地創造》《楽園追放》など旧約聖書に取材した9場

面の天井画と祭壇壁画《⇒最後の審判》は⇒ミケランジェロの作品。また両側の長い

壁画には⇒ピントゥリッキョ,⇒ボッティチェリ,⇒ギルランダイオ,⇒シニョレリ,⇒

ペルジーノらによる宗教画がある。

*4:サン・ピエトロ大聖堂

サンピエトロだいせいどう

⇒バチカンにあるローマ・カトリック教会の主聖堂。Basilia di San Pietro。使徒⇒

ペテロの墓所上に建立され,ギリシア十字プランを基本とし中央に壮大なドーム(直径

42m)を架した盛期ルネサンス建築。旧聖堂(⇒教会堂建築参照)は五廊式⇒バシリカで

,ローマ皇帝⇒コンスタンティヌス1世によって324年に創建された。1452年教皇ニコラ

ウス5世が改修に着手し,その没後工事は中断したが,教皇ユリウス2世が16世紀初めに

⇒ブラマンテの案に基づいて工事を再開した。ブラマンテの死後,1515年―1520年⇒ラ

ファエロ,1520年―1546年A.da⇒サンガロ,1547年―1564年⇒ミケランジェロ(大ドーム

を設計),1603年―1629年⇒マデルノ(身廊,玄関廊,ファサードを設計)などが次々に監

督を務め,イタリア・ルネサンス最大の建築事業となった。聖堂の前のサン・ピエトロ広

場を囲む半円形の円柱回廊は1657年―1667年に⇒ベルニーニが建造。

 

*5:ローマ [市] Roma

イタリアの首都。同国中央部,ティレニア海岸から約25kmにあり,テベレ川の両岸に位

置する。七つの丘を中心に発達し城壁に囲まれた古代ローマ以来の長い歴史をもち,〈

永遠の都〉と呼ばれる。典型的な地中海式気候に恵まれる。イタリアの政治・文化の中

心で,市域内に⇒バチカン市国がある。古代ローマ時代の⇒フォルム・ロマヌム,⇒コロ

セウム,⇒カラカラ浴場などの遺跡のほか,サンタンジェロ城(6世紀),パラッツォ・ファ

ルネーゼ(16世紀),⇒サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂,⇒サン・ピエトロ大聖堂(バチ

カン)などの建築物があり,ローマ大学(1300年創立),カトリック系の諸大学,ボルゲー

ゼ美術館など教育・文化施設も多い。基本的には第3次産業(行政と観光業)の都市で工

業はあまり盛んではないが,印刷・出版,映画産業,食品加工,繊維などがある。旧市街の

南方にある計画都市エウル地区は現在官庁街となっており,南西郊ティレニア海岸のフ

ィウミチーノにレオナルド・ダ・ビンチ国際空港がある。

古代ローマ帝国の首都として人口100万を擁して繁栄したが,330年コンスタンティノ

ープルに帝国東方の首都の座をゆずり,⇒西ローマ帝国滅亡(476年)後はゲルマン諸族

の侵入によって破壊され教皇の町になっていく。中世にローマ教皇の権威が増すとと

もに,教皇領の首都としての地位が確立,教皇が行政をも支配するようになった。15世

紀から16世紀前半にかけてのルネサンス期にローマは飛躍的に発展する。17世紀に入

ると政治の中心が西ヨーロッパに移り,ローマは巡礼地としての性格が強まる。1798年

フランス軍の圧力の下にローマ共和国が成立したが,ナポレオンの没落後教皇の支配が

復活。1861年のイタリア統一後も教皇はローマとその周辺を支配しつづけたが,1870年

にローマはイタリア王国軍に占領され,1871年にはイタリア王国の首都となった。ロー

マの支配をめぐるイタリア政府と教皇との争いは1929年の⇒ラテラノ協定締結,バチカ

ン市国の成立によって落着した。268万7881人(1994)。

*6:ローマ [古代] Roma

伝承ではイタリア半島のテベレ河畔にラテン人のたてた都市国家から興り,のち世界帝

国に発展した古代国家。一説に前753年⇒ロムルスが建設,最初は王政であったが,前5

10年ころ共和政となった。共和政初期は,貴族(⇒パトリキ)に対して平民(⇒プレブス

)の政治的同権を求める身分闘争が展開された。一方,前260年ころまでにイタリア半島

を平定,次いでカルタゴとの3次にわたる⇒ポエニ戦争,および東方での戦争に勝利を収

めて,前2世紀末には地中海を完全に支配した。しかし領土拡大の反作用として,中小自

営農民(重装歩兵市民団の母体)の没落がみられ,グラックス兄弟の改革もむなしく,共

和政末期の内乱が約1世紀続き,カエサルに代表される専制支配の傾向が生まれたのち

,前27年オクタウィアヌスによって帝政(プリンキパトゥス)が成立した。帝政初期は⇒

五賢帝時代を通じて〈ローマの平和(パクス・ローマーナ)〉が続き,2世紀初めトラヤヌ

ス帝治下で版図は最大となった。次いで3世紀後半の⇒軍人皇帝時代には混乱が続いた

が,ディオクレティアヌスがこれを収拾して帝国を再建し,専制君主政(ドミナトゥス)

が生まれた。しかしテオドシウス帝の死後,395年に帝国は⇒西ローマ帝国と東ローマ

帝国(⇒ビザンティン帝国)に分裂し,前者は476年オドアケルに滅ぼされたが,後者は1

453年まで続いた。ローマ帝国の栄光は長くヨーロッパ統一の理念(ローマ理念)として

継承され,〈第2のローマ〉(コンスタンティノープル),〈第3のローマ〉(モスクワ)の

思想を生んだほか,カール大帝による西ローマ帝国の復活,オットー大帝による⇒神聖

ローマ帝国の創建,さらにはナポレオンの帝国,ファシズムの国家観にまで影響を及ぼ

している。

ローマの文化的達成は,しばしばギリシアと対比されてその実用性やリアリズムの面

のみが評価されるにとどまるが,ポリスの連合体と世界帝国とは同日の談ではない。世

界宗教にまで発展したキリスト教,あるいは⇒ローマ法や⇒ラテン語の継受だけをとっ

てみても,後世への影響は比類なく大きい。

 

 

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